The Kathmandu Durbar Square holds the palaces of the Malla and Shah kings who ruled over the city. Along with these palaces, the square surrounds quadrangles revealing courtyards and temples.
じゅり馬スネー(一般公募女性の皆様へ)
じゅり馬スネーの持ち物
◆ 必需品(2点)衛生上、各自でご用意ねがいます。
・白足袋
・赤い鼻緒の草履 ※草履に慣れるためにも練習会は草履でご参加ください。
☆お近くで見つけられない方へ☆ 下記(Amazon)でもご購入いただけます。
・じゅり馬(琉装)の草履 ・白足袋
◇ お持でしたら当日ご持参ください。
・白襟の襦袢
・衿芯
・腰紐(できれば3本)
<補足>
白足袋 → 草履が履けるソックスタイプ(白)でも可です。
草履 → 沖縄で三線や琉舞をなさっている方は99%お持だと思います。草履にはマジックで名前を書いておきましょう。
当日(琉装前)の服装
◇ 白襟襦袢をお持の方 → 衿芯も入れて襦袢を着けてください。
◇ お持でない方 → 首周りの深いTシャツとスパッツを履いてきてください。
・白足袋を履き、草履で踊ります。本番までに草履に慣れておいてください。
令和6年じゅり馬まつり(地域パレード)じゅり馬スネーは「花街・辻」の伝統文化体験☆一般公募型
令和6年は「じゅり馬まつり」において、36年ぶりに地域パレードが復活いたします。
それにともない「じゅり馬スネー」は一般女性から公募で募りました。
心身ともに健康な女性で、練習会のご参加が可能であれば、年齢・国籍は問いません。
地謡は立って唄三線ができることが条件ですが、舞踊は琉舞経験問わず。という初めての試みです。
(初めての試みのため、準備の白足袋・草履のご案内が遅くなり申し訳ございませんでした。)
初めての試みに30名あまりの女性からご応募をいただき、さまざまな想いを抱いた女性たちが集まってくださいました。
年齢もお住まいも出身地も多種多様です。
「じゅり馬」を通して、沖縄の「花街・辻」の歴史・伝統文化を体験していただき、少しでも花街・辻への理解を深めていただければ幸いです。
※令和6年「じゅり馬スネー(舞踊・地謡)」一般公募は終了しております。
至らない点が多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
辻町の旧廿日正月「じゅり馬まつり」昭和時代の衣装たち
☆ 令和6年「じゅり馬まつりパレード実行委員会」のイチ活動の記録 ☆
と き:令和6年2月2日(金)11時~13時 天候:晴れ(暑いくらい)
ところ:沖縄県那覇市辻二丁目 辻自治会事務所
目 的:辻自治会が保管している旧廿日正月(じゅり馬まつり)の衣装確認
参加者:4名
・辻自治会(1名) 婦人部長(伊良波 富士子さん)
・じゅり馬まつりパレード実行委員会(3名)
実行委員長(砂川 英昭さん)、会計(上原 由美子さん)、事務局長(安積 美加)
36年振りに地域パレードが復活 & 「じゅり馬スネー」は一般女性公募型に!
令和6年3月17日(日)開催予定の「じゅり馬まつり」。
昭和63年から実に36年振りに「じゅり馬まつり」の「地域パレード」が復活します。
36年振りの地域パレード「じゅり馬スネー(行列)」は、なんと一般公募!!
初めての試みです。
「琉球國時代から長い歴史を有する花街・辻の伝統文化を一般の方に体験していただいてみては?!」
という発想から始まりました。
じゅり馬スネーの衣装確認
さて、肝心のじゅり馬スネーの衣装をどうする!?!
「辻自治会が保管している衣装があるはず。一度確認してみましょう!」
じゅり馬スネーに必要なモノを辻自治会が何をどれだけ保管されているのか、の確認を急遽さていただくことになりました。
押し入れには昭和時代まで「辻旧廿日正月じゅり馬まつり」に使われていた衣装がたくさん眠っていました。
上写真の押し入れは、いくつか衣装ケースを出した状態です。
なので、実際はまだまだたくさんあります。すごいさー!
立ち会っていただいた辻自治会婦人部長・富士子さん。(確か御年87歳くらいだったはず)
昨年11月の辻自治会「秋祭り」で幕開けの「かぎやで風」を踊られました。着物の似合うカッコイイ婦人部長さんです。
そのむかし、昭和時代はもちろん「じゅり馬」も踊っていらしたそうです。
昭和からの「じゅり馬」衣装が大量に保管
じゅり馬の衣装、たくさん、たくさんありました!!
想像以上の数! 数! 数!
衣装の数から、当時のまつりの規模が想像できます。
ほとんどの衣装が良い状態。大切に保管されてきたことがよくわかります。
「じゅり馬まつり」の保存と継承のために。昭和から令和へ繋がるひとの想い
当時の世相を考えると、「じゅり馬まつり」の開催は非常に大変だったようです。
「これだけやったんですね。本当によくやりましたね」
「ありがとう。そんなふうに言ってもらえて嬉しい・・・」
感動のあまり婦人部長に駆け寄りました。
「辻の方たちがこれだけがんばったんだすね。
富士子さん、辻のみなさんがここまで繋げてくれたんですね」
気付けば、ふたりして涙を浮かべながら抱き合っていました。
「まつりは一人ひとりの力が必要です。
自分はもう年も年だから、外からできることを応援しますよ」
と富士子さん。
昭和時代の想いが詰まった辻自治会の大切な衣装道具を、令和6年じゅり馬まつりパレード実行委員会がお借りします。
昭和から令和へ。
時代が移り変わっても、
地域の伝統行事、歴史ある伝統文化を守っていきたい。
次の世代に繋げたい。
強い想いは昭和も令和も同じなんですね。
マジックで「辻廿日」と記された襦袢。
「昭和五十四年二月一七日 辻町じゅり馬実行委員会」と書かれたハチマキ(八巻)も見つかりました。
それぞれお仕事を抜け出してきての確認作業。時間は限られています。
すべてを確認するには時間も人手も足りません。
「今日はじゅり馬の衣装だけ確認しましょう!」
と自らジーファー(かんざし)の数を数え始める実行委員長。
衣装もジーファーも何もかもが想像以上の数量です。
「とりあえず40まで数えて、今日はそれ以上は数えないでいいでしょう」
となりました。
琉装の象徴のひとつ、ウチナーカラジに欠かせない「イリガン」
ジーファーがこれだけたくさんあるのに、ぽっこりはないのかなーと思っていたら・・・
なんと! イリガンが山ほど出てきました!!!(下の写真の新聞紙に巻かれているものです)
前出で「ぽっこり」と書きましたが、「インスタント・カンプー」と言った方がピンと来るでしょうか。
ウチナーカラジを結い上げた完成形のウィッグで、髪(地毛)を束ねたらトップにちょこんと乗せてジーファーとピンで留めればOK! という、とても便利な代物です。
「イリガン」は、長い髪を束ねたエクステ(付け毛)です。
地毛といっしょに結い上げていきますので、手間と時間+からじ結いのテクニックが必要。ですが、イリガンを使った場合は、(扮する役の)身分や地域、年齢層などを表現することができる上、その方に似合うよう自在に仕上げることが出来るので、よりいっそう美しい。という大きなメリットがあります。
手軽にできる「ぽっこり」と、手間暇・技術が必要ですがそれぞれに似合うように結える「イリガン」。(カラジ結いできる十分な髪の長さがある方は、ぽっこりもイリガンも必要ありません。)
どちらにもそれぞれメリットがありますが、いずれにせよ、これほどの数量のイリガンを揃えるのは、現在はさらに難しいんじゃないかな、と思います。
まさに宝の山!! さいが!
そのほか、親方、チーアンマー、国王、ウミナイビの衣装が出てきました。ほんと、すごいです!!
国王やウミナイビの絢爛豪華な衣装は、本番で出せるかなー。どうかなーってところです。
なのでココでは(いまは)出し惜しみさせていただきますネ。お楽しみに。
「じゅり馬まつり実行委員会」と書かれた帯かな? を手に。砂川実行委員長のパラパラ写真(笑)
「じゅり馬」に欠かせない馬頭板です。辻自治会が保存されている馬頭板は朱色です。
修正が必要な馬頭板。裏には「辻自治会 昭和五十四年二月十五日」と明記されています。
お昼前11時から13時までの2時間でしたが、あっと言う間でした。
辻自治会は大変な数量の衣装道具を保管されていました。
ですから、すべての衣装は確認しーきれず。
再度の確認が必要。ですね。
またよろしくお願いいたします。
2024年2月4日(日)は、第1回目の「じゅり馬スネー」練習会です。
どれだけの女性が来てくださるのか。
皆様にお会いできることが楽しみです。(^-^)
うまんちゅぬ あちゃー かふー うにげーそーいびーん。
みなさまに琉球弧のすべての神々のご加護がありますように☆
久米島 兼城十五夜村あしび
旧暦8月15日の十五夜。
沖縄県内各地で、さまざまな伝統行事やお祭りが開催されます。
久米島の海の玄関口・兼城(かねぐすく)集落には、島で唯一の獅子舞が現存しています。
十五夜では、集落の無病息災、五穀豊穣、集落の繁栄を祈願して、獅子による神事「拝所まわり」が、翌日には「兼城十五夜村あしび」が開催されます。
兼城公民館の広場で繰り広げられる「村あしび」には、老若男女の多くの地元の人たちが集います。
たくさんの子どもたちも「村あしび」を楽しみに会場へやって来ます。
ステージのそばから子どもたちが獅子に向かって何やら囃し立てています。
このあと、なんと獅子はステージからビヨーンと飛び降り、子どもたちのところへ突進していきました。
兼城の暴れ獅子が縦横無尽に会場内を駆け回ることも「兼城十五夜村あしび」の醍醐味なのです。
【撮影】久米島(くめじま)沖縄県久米島町兼城/2019年9月13日
沖縄版ウユニ塩湖 ~ 鏡のような多良間の海
2010年、多良間島の「八月踊り」取材で訪れた際にコンデジで撮った一枚。
たまたま不思議な雰囲気に撮れたので、印象に残っています。
何がどう、不思議に感じたのか。
いま改めて考えてみると、
絶景で知られる南米・ボリビアの「ウユニ塩湖」のように、
空と海、歩いている人までも、合わせ鏡のように撮れていたのですね。
「沖縄版ウユニ塩湖みたい」
13年も経ったイマになって気付きました。
多良間島の「八月踊り」は毎年旧暦の8月8日から10日の3日間に開催される国指定重要無形民俗文化財です。
コロナ禍で中止されていたため、今年2023年は今日(9月22日)から4年振りに開催されています。
【撮影】多良間島(たらまじま)沖縄県宮古郡多良間村/2010年9月14日
伊平屋島の十三夜
「クバオンギ」「クバオージ」
石垣島の旧盆伝統行事「アンガマ」でつかわれていた「クバオンギ」。
クバの説明をしようと思った時に、ふと、伊平屋島を思い出しました。
伊平屋島には見事なほど、お山全体がクバで覆われた山があるからです。
その名も「久葉山(くばやま)」。県の天然記念物に指定されています。
写真は伊平屋島から観たお月様です。
“こんなキレイなお月さまを撮ったかな?!” と記憶をたどりました。
このときは、「ムーンライトマラソン」に関連する取材で伊平屋島を訪れていました。
プロカメラマンも同行しており、私はライター業に専念。つまり、写真を撮る必要がなかったのです。それでも思わずシャッターを切りたくなったのです。
とてもキレイだけれど、満月ではありません。
ひょっとしたら、十三夜かも?!
十三夜といえば、八重山に「月ぬ美しゃ十日三日」(月の美しいのは十三夜)と唄い始める、「月ぬ美しゃ(つきぬかいしゃ)」という美しい子守唄があります。
撮影は2014年11月5日。
調べてみると、閏年の旧暦9月13日でした。
【撮影】伊平屋島(いへやじま)沖縄県伊平屋村/2014年11月5日
登野城アンガマ「道唄」 石垣島
※書きかけですが公開します。 by mika
アンガマターヌ オウルンケン
アンガマターヌ オウルンケン
ミーシュンマースン カイトリホイ
ホーイホイ(ホーイホイ)
ホーイホイ(ホーイホイ)
ホーイホイ
■ 伝わっているところ:石垣島(いしがきじま)/沖縄県石垣市字登野城(とのしろ)
■ 唄われる状況:ソーロン(旧盆)の3日間。「道唄(みちうた)」は旧盆の伝統行事「アンガマ」一行が練り歩く際に唄われます。
登野城アンガマ「道唄」石垣島 | 訳 |
アンガマターヌ オウルンケン アンガマターヌ オウルンケン ミーシュン マースン カイトゥリホイ ホーイホイ(ホーイホイ) ホーイホイ(ホーイホイ) ホーイホイ | アンガマたちが おいでになっているうちに アンガマたちが おいでになっているうちに 味噌と塩を盗んで食べてしまった |
・ミーシュン=味噌
・マースン=塩
■ 登野城アンガマ「道唄(みちうた)」大意
アンガマたちが家に居るあいだ、大人たちはアンガマに気を取られている。アンガマが家にいるあいだに、大人の目を盗んで、子どもたちは味噌と塩を盗み食べてしまった。
「登野城(とのしろ)」は、石垣島の古くから中心的な地域である四ヶ字(しかあざ)のひとつです。
アンガマは大正の年代頃までは石垣村の各字で盛んに行われていたが、次第に廃絶し、現在石垣市街地区に残っているのはひとりこの登野城のアンガマだけである。
【出典】牧野 清(まきの きよし)
『登野城村の歴史と民俗』
昭和50年5月20日発行
[引用]161ページ
「他の字(地域)は “オーランケン(アンガマたちが来ないうちに、来る前に)”と唄っているらしいと聞いたことがあります。でも、自分たち(登野城)のアンガマをやらないといけないから、他の字のアンガマを見たことがないから定かではないですけどね」(登野城アンガマの地謡を長年務められた比屋根悟さん談)
【取材情報】
取材日:2023年8月28~30日(旧盆)
取材場所:石垣島/沖縄県石垣市
取材協力:比屋根悟(ひやね さとる)さん、登野城青年会
ご協力まことにありがとうございました。しかいとみーはいゆ~。
久高島の日常 ~ 島人憩いの場
島の南西、久高漁港へ下りる道端に島人が集う憩いの場があります。
そこは少し高台になっていて、久高漁港を眼下に、沖縄本島を望むことができます。
日中はコバルトブルーの海を、夕方には夕景を。
皆で眺める絶景から自然と会話が生まれます。
「夏と冬、季節によって太陽の沈む位置が変わるんだよ。
こんな小さな島だけど、ここから夕日を見ていると、地球は丸いんだなぁってよくわかるさぁ」
【撮影】久高島(くだかじま)沖縄県南城市知念/2023年7月3日
沖縄の伝統行事【旧盆】石垣島の「アンガマ」(平成22年版)
当記事につきまして
当記事は平成22年(2010年)8月24日に取材させていただきました石垣島の旧盆「アンガマ」レポート【復刻版】です。
当時はカメラマンとライター・美加の2名体制でした。写真はすべて平成22年にコンデジで美加が撮影したものです。いまは一眼レフで撮影+映像も撮らせていただいたり、撮影・取材・執筆のすべてを一人でこなしていますが、このときは書く専門でした。しかもガラケー時代でした。いろいろと懐かしいです(笑)
☆ 次の予定 ☆
令和5年(2023年)来週の石垣アンガマはガッツリ取材させていただく予定です。
お楽しみに。(^-^)/
記:令和5年(2023年)8月22日(火)
プロローグ
ポツン、ポツンと人工の光を街灯がほのかに作り出しているものの、夏の夜の闇が支配しているような静かなしずかな石垣市の住宅街。
ドン・ド・ド・ドーン!
ドン・ド・ド・ドーン!
テンテ・テ・テテテーン・テーン・テン♪
不意に静寂を打ち破るような太鼓の音が響き渡り、切れのよい三線の音色が闇の奥から聞こえてきた。
その音が徐々に近づいてくるにつれ、「ホーイホイ」、「ホーイホ
音にあわせて何者かたちがゾロゾロと闇からこちらに向かってくるようだ。
石垣島のソーロン(旧盆)の夜、グソー(あの世)から陽気な精霊たちがやってきたのです。
さぁ、愉快なアンガマご一行様をみんなでお迎えいたしましょう!
グソー(あの世)からの陽気な精霊アンガマ
コバルトブルーの海に点在する島々へ旅立つ基点となる港がある石垣島。八重山諸島の玄関口となる島です。
その石垣島の港を中心とした新川、登野城、大川、石垣の四ケ字(ヨンカアザ)が “アンガマ” の盛んな地域。
「アンガマってなに?」
アンガマをはじめて耳にする方もいらっしゃるかもしれませんが、“アンガマ” は蛙の親戚ではありません。お釜とも違います。
ソーロン(旧盆)にグソー(あの世)からやってくるとされるアンガマは、祖霊を表わす翁(ウシュマイ)と媼(ンミー)の仮面を付けた二人が、花子と呼ばれるファーマー(子、孫)を引き連れて家々を訪ねてまわり、祖先の霊を供養し子孫繁栄を祈り、歌や踊り、珍問答を披露する笑いあふれる賑やかなソーロンの伝統行事です。
まずはご先祖様にご挨拶、そして様々な舞踊が披露されます
アンガマご一行様はソーロン(旧盆)の夜、グソー(あの世)からやってきて各家庭をまわります。
一行がいらっしゃるときは親戚一族である門中(ムンチュー) のみならず、ご近所さんから一般見物人、観光客まで訪問先の庭先に入って、おうちの方たちと一緒に一行をお迎えすることが許されているのが暗黙の了解となっているようです。
まったく見ず知らずのひとまでおうちの庭先に入れて、「みんなで一緒にアンガマご一行様をお迎えしましょう」という慣習は、実におおらで、ほのぼのとしています。
いまか、いまかとワクワクしながら訪問先の軒先で一行を待っていると、暗い路地の向こうから太鼓や三線の音が徐々に近づいてきました。
その音にあわせて、「ホーイホイ」、「ホーイホイ」、「ホーイホイ」と言う掛け声は20~30名ほどでしょうか。
旧盆の夜の闇はグソー(あの世)につながっているのか、暗い路地先からやってくる一行はなぜかまったく不自然な感じがしないのが不思議です。
ウシュマイとンミーが先頭に立つ一行が訪問先に上がると、花子と呼ばれるファーマー(子、孫)たちがトートーメー(位牌)を囲むように車座になって座ります。
花子たちは着物姿に、花笠をかぶり、顔は手ぬぐいなどで覆い隠しています。いわゆる覆面姿です。
サングラスを掛けて目元まで隠している一行もありました。
顔を隠すのは、あくまで彼らはこの世のひとではないからで、花子たちが車座となって座るのも“あの世とこの世の結界”だともどこかで耳にしました。
花子が全員座り終え結界が出来上がると、ウシュマイ(翁)とンミー(媼)がトートーメーの前に座り、訪問先のご先祖様たちに八重山方言でご挨拶をします。
「今年○○のところに女の子が生まれました」
「□□が成人式を迎えました」
「○□と□○がミートゥンダー(夫婦)になりました}
など、一族の変化や暮らしぶりを報告します。
これらはすべて八重山方言で語られます。
その様子はうやうやしくあるのですが、甲高い裏声を使ったユーモラスな「ウートートー、アートートー(祈りを捧げるという意のウチナーグチ表現)」はどことなく滑稽でもあり、微笑ましい姿です。
ご先祖様へのウートートーが済むと、花子たちによる踊りが披露されます。
一軒の訪問先につき一時間ほどの時間をかけますので、三線を弾きながら唄う地謡(ジウテー /ジカタ)と太鼓の拍子に合わせ、扇子をつかった舞踊、桑をつかった踊り、ウェーク(櫂)やバーキ(籠)をつかった踊りなど多種多様の踊りが披露されます。
おそらくその大半は、いや、きっとそのすべては八重山の歌と踊りかと思われます。八重山芸能を間近で堪能することができる楽しいひとときです。
方言で繰り広げられる珍問答
さて、アンガマのメインはなんと言っても、踊りと交互に繰り広げられる “珍問答”!
多くの見物人や、親戚一族である門中(ムンチュー)の間から、突拍子もない甲高い声で、
「ウシュマイ、ウシュマイ、ウシュマイよぅ!」
あるいは
「ンミー、ンミー、ンミーよぅ!」
とウシュマイやンミーに話しかけ、質問を投げる人がいるのです。
質問する人はタオルや手ぬぐいで顔を隠しています。
なんでも「ウシュマイやンミーに顔を見られるとグソー(あの世)に一緒に連れて帰られるから」という説があるとも耳にしました。
一緒にグソーに連れて帰られるとは、陽気だけど、ちょっと恐ろしいですね。
質問に答えるウシュマイ、ンミーも変わらず甲高い裏声で応酬。
トンチやユーモアを交えながらの珍問答は門中、見物人が大喜びで、笑いの渦が耐えません。
結界を張っている花子たちもクスクスと笑うほどです。
ただ、この質疑応答、珍問答はすべて方言です。
だから、八重山の方言がわからないと、「ハテ~???」となるのですが、そこは雰囲気と想像力を働かせるのみ!!
質問内容は各家庭によって変わりますが、その場にあるモノについても投げかけられます。
例えば、
「トートーメーの前にクルクルと回っている提灯が4つあるけど、どうして1つは回っていないの?」、
「それは故障!」。
いつもはトンチやユーモアのきいた答えを返すところ、あまりにも普通に返したので逆に大きな笑いが巻き起こりました。
ほかにどんな珍問答がやり取りされたか、新聞に掲載された文をご紹介いたします。
「あの世に宗教はいくつあるか?」の質問にンミーは「ラッキョウ、ノウキョウ(農協)、ンミーのアイキョウ(愛嬌)」などと答え笑いを誘った。(八重山日報)
「ウシュマイの歯はなぜ3本?」との質問が飛び出し、ウシュマイが裏声で「第2次世界大戦で子や孫を守るため、爆弾をみんな食べたので、歯がなくなったが、歯医者で3本だけ入れてもらった」と大まじめに答えると、拍手や笑いが起きた。(八重山毎日新聞)
珍問答の1つ、2つをポイントで紙面掲載されますが、やはりその場で実際に質問のやり取りを眺めるのがこのアンガマの醍醐味! と改めて思うのであります。
笑いの絶えない愉快なアンガマだけど、やっぱり“お盆”なのです
ひとつの訪問先に一時間ほど掛けて先祖供養、舞踊、珍問答が繰り広げられる楽しいアンガマ。
一晩に何軒ものおうちを廻るのですが、珍問答では笑いが絶えず、訪問先で披露される踊りも違えば珍問答の内容も変わるので、次の訪問先では何が飛び出すのか楽しみで、飽きることなく一行について廻れます。
ほとんどの訪問先が、八重山の代表的な曲のひとつである六調にあわせ、みんなで踊るカチャーシーで締めくくられました。
今回初めて陽気なアンガマを目の当たりにしたのですが、一軒目の訪問先から気になっていたことが、ひとつありました。
そして、気になる光景は二軒目でも同様に見られました。
それは、花子たちが車座になって作る結界の中に唯一入っている家長らしき年長者(シージャ)の方たちの態度や立ち振る舞いでした。
どの訪問先にも大勢の門中やご近所さん、多くの見物人が集まっていますが、唯一結界のなかに入り、ときどきウシュマイやンミーにお酌をしながら、トートーメーの側に座っているシージャ方がいました。
シージャ方は、ウシュマイとンミーがトートーメーに向かってご先祖様にご報告をしている間、ときには首を立てに大きく振って頷いてみたり、涙をぬぐってみたり、ことさら真剣に拝みを聞き入っているご様子。
門中、見物人のみんなが大笑いしている珍問答の間も笑わず、いたって真面目な面持ち。
また、正座をされている方は正座を一切崩さず、常に姿勢を正していたのであります。
シージャ方はとても、とても謙虚な心持で、真摯にアンガマ行事の行方を見守っているのがわかりました。
その姿に、“あぁ、やっぱりお盆なんだなぁ・・・”とはたと気付かされるのでありました。
そのようなシージャも、締めくくりとなる最後の六調の際には、ウシュマイやンミーに手を引かれて立ち上がり、みんなとともに踊っているお顔には笑みがこぼれていました。
“ 年も無事に先祖供養が終わるのだ” と安堵の笑みなのでしょうか。
初めて笑みを見せるシージャの姿を見て、私もなんとなくホッと肩をなでおろしたのでした。
夜の住宅街をアンガマご一行様を追いかけ、ウロウロ、ウロウロと歩き回りました。
旧盆は3日間かけて行われます。ご先祖様をお迎えする初日をウンケー、中日をナカビ(ナカヌヒー)、ご先祖様を再びグソーへお送りする最終日をウークイといいます。
アンガマも3日間かけて行われました。
最終日のウークイの夜、住宅街を歩いていると門前で送り火をたいているおうちの前を何軒か通り過ぎました。
私は送り火を見るのも初めてでした。
パチパチと燃える小さな送り火を囲む家族や門中らしい方たちに、「こんばんは」と挨拶をすると、穏やかな笑顔で「こんばんは」と返してくれました。
みんなご先祖様たちと語らいの時間をもて、安らぎを得たかのようなやさしい微笑みでした。
旧盆でたくさんの果物や食べ物などが捧げられ、いくつもの提灯で明るく照らされているトートーメーをお邪魔したおうちの数だけ見せていただきました。
目にするトートーメーはすべてまったく知らないおうちのトートーメー。なかには初盆のおうちもあった。
ソーロンの一刻の時間、見ず知らずの方のおうちのお盆を一緒に過ごさせていただくのだから、よくよく冷静に考えてみれば、それはとても不思議な時間なのだ。
これは八重山の人々のおおらかさが生み出した慣習かもしれない。
そして、
“ともに同じ時間、同じ場所で、その雰囲気を共有し、ともに感じることが、ひとがこの世で営む上で大切なことなのだ”
と教えてくれているようにも思えた。
静かなしずかな住宅街で、送り火の白い煙が空高くのぼっていく。
その白い煙を見つめながら、グソーの自分の祖父やご先祖様のことも重ね合わせ、思いを馳せた。
見上げると石垣の夜空には幾つもの星が瞬いていた。
夜空の星が見守るなか、今年も先祖供養と子孫繁栄祈願の役目を無事に果たしたアンガマご一行様も、送り火の煙とともにグソーへと続く路地先の闇へと消えていった。
「ホーイホイ」、「ホーイホイ」、「ホーイホイ」。
しーぶん(おまけ)
辻廿日正月神事 道順(簡易版)
沖縄県那覇市辻で、旧暦1月20日に毎年斎行しております「辻廿日正月神事」の道順です。
来る日曜(2022年2月20日)の廿日正月神事のために。取り急ぎの簡易版を作ってみました。
ご参考までに。
■ 辻ムラヤー(村屋)
辻村はかつて、上村渠(ウィンダカリ)と前村渠(メーンダカリ)という2つの地域から構成されていました。
現在、ムラヤーに2つの守護神をお祀りしています。
上村渠の守護・神獅子
前村渠の守護・弥勒様
また、ムラヤーには、上村村渠のビンシーと前村渠のビンシー、2つのビンシーを保管しています。
辻廿日正月神事の道順は下記になります。※ムラヤーから出発し、ムラヤーに戻ってきます。
- 鏡寺(カガンヌウティラ) ※那覇市若狭
- 志良堂御嶽(シラドウウタキ)
- 祝女の井戸(ヌールガー)
- イシカブイ
- 軸(ジク)
- 辻御嶽 開祖の祠
- 辻開祖之墓
- 火の神(ヒヌカン)
- 鏡寺(カガンヌウティラ)
正式名称は「海蔵院」。かつては広大なお寺だったようです。こちらだけ若狭になります。
辻開祖とされる3人の王女「マカトガニヌメー(真加登之前)」「ウミチルヌメー(思鶴之前)」「ウトゥダルヌメー(音樽之前)」のトートーメー(位牌)が祀られています。「ウサザカイヌアンマー」は3人のお世話をした侍女だと思われます。
沖縄県那覇市若狭「海蔵院」(2021年3月2日撮影)
「海蔵院」沖縄県那覇市若狭1-9-8 ※私邸の一室になっておりますのでご配慮をお願いいたします。
2. 志良堂御嶽(シラドウウタキ)
いまではビルとビルの合間にひっそりと隠れるようにある御嶽です。
かつては久米村が管理しており、唐への航海安全を祈念する御嶽でもありました。
続く
サイトがぜんぜん更新できてなくてごめんなさい。
このサイトのエディターに慣れていなくて。。。
すごく苦労してここまで綴りましたが。。。
仕事が忙しすぎたり、今日は神事の準備だったりと
今宵は力尽きました。
ゆくります。。。
2022年の辻廿日正月神事は
2022年2月20日(日)正午にムラヤー出発予定です。
(多少前後することもありますがご了承ください。)
では日曜に。