第17回「とぅばらーま」石垣島
「とぅばらーま」流れ
「『とぅばらーま大会』は昭和22年から始まりました。
主催が新聞社、映画館、石垣市、観光協会などと変わりながらもずっと続いています」
与那嶺定さんの言葉に驚きました。主催が変わりながらも、昭和22年から今日まで、70年以上も続いている大会なのです。
昭和22年から平成21年までの『とぅばらーま大会年表』を拝見すると、チャンピオン「なし」とチャンピオン不在の年度がいくつか目につきました。
「チャンピオンのいない年もあるのですね」と尋ねると
「とぅばらーま大会のチャンピオンは、その人が世界中どこで唄っても恥ずかしくない人を選びますからね」
と誇らしげな面持ちの定さん。
それほど「とぅばらーま」に対する想い入れと誇りをみなさんがお持ちなのだとハッとさせられました。
※今年2012年の「とぅばらーま大会」は9月28日(金)午後7時から石垣市新栄公園で開催されます。

現在よく唄われている「とぅばらーま」の前身として、「昔とぅばらーま」、「野(ぬー)とぅばらーま」、「道とぅばらーま」、「家(やー)とぅばらーま」があげられます。そのほか、滑稽な内容を面白おかしく唄う「ばっかいとぅばらーま」、与那国の言葉で唄う「どぅなん(与那国)とぅばらーま」というものもあるようです。
「とぅばらーま」の流れを時代背景も踏まえて大田静男さんに解説いただきました。
男女の掛け唄であったという「昔とぅばらーま」を静男さんが少し唄ってくださいましたが、意外や節回しは現在よく唄われている「とぅばらーま」とは別物でした。
「野とぅばらーま」はユンタ調で野良や野良からの帰り道に唄っていたとされ、「道とぅばらーま」は遊びながら道で唄ったり、夜遊び、ぬあすび(野遊び)の唄。
「石垣では“野遊び”、“浜遊び”と言って、野や浜で遊びながら年上のひとから『とぅばらーま』を習っていた」と静男さん。
ここまでは三線はつかず、野外で大きな声でのびのびと唄っていたようです。
時を経て登場するのが「家とぅばらーま」。このあたりから三線がつき、家のなかで唄うので大声では唄わなくなったそう。
「これまで野や道で唄っていたものに三線が入り、洗練されたのが『仲道節』、現在の『とぅばらーま』です。
『家とぅばらーま』は『仲道節』の前段階でしょう。野原で唄うものと三線つきを区別しようとして『仲道節』ができたのかもしれない。
1771年に起きた明和の大津波より前に記録されている与世山親方の規模帳(当時の行政報告)によると、当時、百姓たちに三線はなく、集団でユンタを唄っていたとあります。
それから100年くらい後の翁長親方の規模帳には、百姓も三線を持つようになり、誰もが三線を弾いているとある。
八重山にはユンタ、ジラバ、アヨーなどあるなか、どのジャンルにも当てはまらない『とぅばらーま』は、百姓たちに三線が広まった1700~1800年くらいに広まったのではないだろうか」
と静男さん談。

いまでは石垣のみならず、広く唄われる「とぅばらーま」ですが、島外に普及するには少し時間がかかったことが考えられると静男さんは例を挙げられました。
「むかしは石垣だけで唄われていたと思う。
与那国島の『与那国ションカネ』は、サンパチロクの琉歌の定型なので普及しやすかったでしょうね。
しかし、『とぅばらーま』は歌詞の文字数が不定なので、かえって難しかったのではないか」
工工四(三線の楽譜)に起こすのが難しかったり、自由度が高いほどかえって馴染みにくいことを示唆されたうえ、
「そのような『とぅばらーま』を普及させたのは、多嘉良朝成や多嘉良カナーといった沖縄の芝居人たちでしょうね」
と静男さんは付け加えられました。
喜舎場永珣著『八重山民謡誌』に、一句(「仲道節」)に登場する仲筋家の美しい娘・カナシは29歳(1822年)のときに選ばれて山城在番筆者の仮屋のアンマ(ウヤンマ)となる、と記述があります。役人に見初められていわゆる現地妻になったということです。カナシの元へ多くの青年が通ったのはウヤンマになる以前のことだろうから、1800年代はじめ頃に「仲道節」、「とぅばらーま」は生まれたであろうと永珣氏は著書の中で述べています。
「とぅばらーま」の発生と歴史について静男さんと永珣氏の考察をもとに、想像力を働かせて当時の八重山の暮らしぶりや様子を思い浮かべるのも一興。
月明かりに照らされた静かな田んぼの畦道を「とぅばらーま」を唄いながら歩く。唄っているとどこかから返しが入る。
むかしの八重山の情景と「とぅばらーま」を重ねて思い描くのもよいものです。
「唄には恋歌、労働歌、教訓歌といろいろありますが、『とぅばらーま』をひとことで言い表すと?」
との問い掛けに、静男さん、定さん、弘美さん、その場にいらした全員が
「すべてに当てはまる唄!」
と声を揃えて即答されました。
「とぅばらーま」はすべてを表現できる唄だというのです。
「場面によって変わるからね。男に都合のよい歌詞もあれば、お葬式で唄うときもあれば、結婚式で唄うこともある」と静男さん。
「むかしは馬車で帰りながら唄っているのを聴いたよ」
「於茂登山から竹をいっぱい積んだ馬に乗ったおじさんたちも唄っていたね」
静男さんも定さんも会話のなかで当然のように馬車を登場させるので、
「それはいつ頃のお話ですか?」
とつい年代を確かめずにはいられませんでした。
石垣島には1975年くらいまで馬車があったそうで、馬車に乗ったおじさんたちが夕暮れ時に「とぅばらーま」を歌いながら家路を歩む様子がおふたりにはとても印象的だったようです。
昭和50年代あたりまでは道行く人が口ずさみ、あちらこちらから聴こえていたであろう「とぅばらーま」。
今現在はどうなのでしょう?
「私は生活の中で唄っています。クルマの中でも唄いますよ」と弘美さん。
「僕はいまでも酔っ払った帰り道に唄いながら帰りますよ」静男さんは愉快そうに笑顔です。
「昔の人はみんな唄えたんだよ。庶民もみんな唄っていた。だから昔は唄って反応があった。返しもあったし、うまく合いの手が入ってきたりね。でも、今は見ているだけ。聴いているだけの人が多い。
唄い方も昔はバラエティーに富んでいたが、いまはコンクール形式で似たような唄い方となってしまっている。
『とぅばらーま』は悲しいイメージがあるが、実際はいろいろな歌詞がる。イメージを壊すべき!」
静男さんは、近年の画一的になりがちな唄い方と定着しているイメージを危惧し、本来の枠にとらわれない自由奔放な「とぅばらーま」が消え失せないよう願っているようでした。

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