取材後記 ー 考察と覚書を交えて
取材から帰宅後、執筆にあたり文献で知ったことも多くありました。
取材後記として覚書とあわせて考察を少し記しておきたいと思います。
(詳しく伺える機会があれば幸いです。)
君南風殿内のミチャブイの台座
朝神の君南風殿内にて、君南風が冠するミチャブイの台座について触れている文献(上江洲安享『琉球国の祭祀儀礼道具の研究』)がありました。
台座となっているのは、“代替わり前の食籠”だそう。塗膜・加飾は剥がれ年代を感じさせます。
現在は朱色に塗られた食籠が用いられています。食籠が交代した年代は不明とのこと。
次の写真には現役の朱色の食籠と、台座として活用されている食籠、新旧の食籠が写っています。

トートー石
石灰岩台地に築城されている具志川城跡において、トートー石は唯一の安山岩である。
トートー石は、君南風のための台座としてこの場所に持ち込まれたのではないか。
と考察される文献( 神谷智昭、神谷幸太郎、上原三空、幸地彩「社会人類学研究室久米島調査報告」2023年)を見つけました。
隔年でグシクヌブイが行われていたという宇江城城跡にはトートー石、もしくは該当する台座はあったかな?
また、宇江城城跡と具志川城跡のグシクヌブイの祭祀内容に相違はあるのか?
次回、久米島を訪れた際に確認できればと思います。
カセットデッキから流れる「ウムイ」
六月ウマチーではカセットデッキから「ウムイ」が流れると聞いていました。
帰宅後に開いたいくつかの文献からも、これまでカセットデッキでウムイを流していた記述が見られました。
令和7年はカセットデッキの登場はありませんでした。
ミチャブイの植物
君南風が冠する「ミチャブイ」は「奥武島のノシランを用いている」とお聞きしました。
「ヤブラン」とされる文献や資料も見受けられました。
何らかの理由でノシランであったり、ヤブランであったりするのかな?
少し気になりました。
朝神・夕神で廻る祭地
「六月ウマチーでは、二十五日には、朝神を君南風殿内、さらに西平蔵下、新蔵下でおこなう。夕神は当間蔵下で行い、さらに宇江城跡へのぼり、上江洲蔵下、新蔵下でおこなう。」
(【出典】田上善夫『久米島における祭地とその由来』2014年)
令和7年の朝神は君南風殿内、仲地蔵下、玉那覇蔵下で斎行され、夕神は具志川城跡グシクヌブイでした。
殿廻りは年によって変わるようです。
具志川城グシクヌブイ 考
参考文献(田上善夫『久米島における祭地とその由来』2014年、當真嗣一『久米島の国・県指定史跡のグスク ー 縄張りを中心に ー』)と現地取材を合わせて鑑みると、令和7年の具志川城グシクヌブイの主だった神事は次のように斎行されたと考えられます。
1.君南風おひとりで、聖域「タマクガニのウタキ」で具志川城跡の神に祈る。
2.ローカーヤーでは首里弁ヶ嶽に向かって拝む。
3.拝所「崎間森」では、北西の中国への拝み。
4.ローカーヤーにて直会らしきもの
5.君南風がトートー石に座し、兼城ノロ(博物館長が代理)と盃の儀を行う。
ウサンデーのかるかんを皆でいただき、ほっと一息ついたのは直会だったように思えます。
久米島には、君南風が率いる10名の神女(比屋定ノロ、城ノロ、宇根ノロ、比嘉ノロ、山城ノロ、儀間ノロ、仲地ノロ、西銘ノロ、具志川ノロ、兼城ノロ)がいらっしゃるそう。
直会らしきあとに、トートー石で君南風と兼城ノロの二神だけで神事を斎行される理由も気になります。
兼城は、渡唐船の寄港地として古くから重要な役割を担っていたことが関係あるのかも、と考えます。
文献には、トートー石ではウムイではなく「コイナ」が流れる、と記されているものもあります。(今年は古謡を耳にすることはありませんでした。)
疑問点や確認したいこと、調査したいこと、当記事ではお届けできていない点など、想うところはまだまだありますが、一旦筆を置きたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ぐぶりーさびら。またやーたい。