第9回「でんさ節」西表島
「でんさ節」から習う唄三線ながれ
「でんさ節」の発祥地、上原村が1768年に創建された3年後の1771年、未曾有の大津波「乾隆の大津波(明和の大津波)」が八重山と宮古を襲います。八重山の蔵元がまとめた首里王府への報告書『大波之時各村之形行書』によると、八重山の人口の3分の1にあたる9313名が、宮古では2548名の尊い生命が犠牲になったことが記されています。
1700年代の八重山は、首里王府の寄人制度という強制移住政策によって、上原村のように新しい村が次々と創建されていきました。
1609年の島津の琉球侵攻により薩摩藩の支配下におかれた琉球は、多額の貢納を強いられるようになります。そのため、農民たちは厳しい貢祖を課せられるようになりました。
薩摩への高額な貢納を納めるために、強制移住政策で新たな土地を開墾していったのです。
この時代、強制移住政策によって、家族や恋人、友人、愛する人たちと引き裂かれた哀しい嘆きの唄もいくつか生まれたのでした。
1721年7月21日、石垣島に生まれた作曲者の宮良里賢氏。上原の与人を務めた後、1771年5月に西表首里大屋子職拝命、同年9月には宮良間切頭職御印判を授かるまで大出世を果たします。しかし、1773年4月4日、人頭税の公用で出張中に嵐に遭い、行方不明となってしまいました。

「これだけの大出世ができた宮良里賢は相当な唄三線の名手だったと思います。
むかしは唄三線が上手なひとが出世していたので、みんな必死に、死に物狂いで練習したそうです」
「そうなのですか?
むかしは三線をする人は“アシバー(遊び人)”と言われ、叱られるので、子どもの頃は隠れて弾いていたと聞いたことがありますが?」
周囲にいるシージャ(目上のひと)の話と少し違うな、と不思議に思い尋ねました。
「それは戦争が始まる前の話でしょう。
“戦争に関係のない唄三線は悪い”と富国強兵をうたう日本から言われたのでしょう。
宮良里賢は首里王府の時代です。この頃は唄三線が奨励され、出世に影響していたのですよ」
と昌裕さん。
「三線ブーム」と言われてひさしい昨今ですが、時代とともに唄三線のおかれる立場も移り変わっていくことを再認識させられました。
戦争で唄三線を禁止されていたので、そのストレスが戦後に爆発。戦後、一気に歌ができて、民謡は800ほどできたそうです。
やはりウチナーンチュの精神の根底には唄三線が力強く根付いているのですね。

古文書も読み解く勉強熱心な昌裕さんから多くの文献や資料を見せて頂きました。
資料のひとつ、『校合 八重山古典民謡(40)』に「でんさ節」について解説がありました。
「でんさ節」の発祥地、上原は1909年に廃村。現在の上原村は、太平洋戦争中に疎開し、戦後もそのまま定住した鳩間島の住民と新天地を求めて移り住んだ開拓移住者たちによって形成された村だといいます。
こうした経緯から、「でんさ節」は西表島西部の祖納・干立の人々によって古い形のままで伝承され、同地域では「ディンサー節」と呼ばれているようです。
発祥地が廃村した後も、近くの集落で唄い継がれていたという「でんさ節」。
いまでは、西表の方言で唄われることはほとんどなく、石垣風に唄われることが多いようです。
しかし、本当に良い唄は、場所が変わっても、少し言葉が変わっても、どんなことがあっても絶えることなく、後世へと唄い継がれていくのです。
上原ぬでんさ 昔からぬ でんさ
つぎにあなたが西表島を訪れるときは島風とともに、「でんさ節」を思い起こして頂ければ幸いです。
【取材協力】
平良昌裕さん、「マリンペンションたいら」
西表島でお会いしたみなさま、ご協力まことにありがとうございました。
いっぺーにふぇーでーびたん。しかいとみーはいゆ~。
【主な参考文献】
仲宗根幸市『島うた紀行 第ニ集』
ラジオ沖縄『沖縄の歌100選』
喜舎場永珣『八重山民謡誌』
石垣市『石垣市史叢書11』
石垣市『石垣市史叢書13』
大濱安伴『八重山古典民謡工工四 上巻』
石垣金星『西表民謡誌と工工四』
監修・宮城信勇『校合 八重山古典民謡(40)』
新城俊昭『琉球・沖縄史』
【取材・撮影・執筆】安積 美加(2011年11月16日)
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