第4回「砂持節」伊江島

口伝から書伝 ~みんなの力で後世へ

「むかし、西(イーリ)と東(アーリ)は付き合いがありませんでした。
昭和20年、戦災を機に西も東も関係ないアメリカが捕虜として島民を集めた際に東西入り乱れ、そこから交流が始まり、昭和22年頃から島がひとつとなりました。

戦災で樹が一本もなかった。いまの震災と同じです。
娯楽もありませんでした。ただ、唄と三線だけがあったのです。

昭和48年、民俗芸能保存会を設立しました。
それまで口伝だったのですが、正しく後世に伝えるために昭和60年に保存会が工工四を作りました」

大城さんが続けて語りました。

「伊江島の方言は沖縄本島とも違います。
伊江島は唄の島で、伊江島独特の唄があります。
伊江島のものは伊江島のものとして保存したいのです」。

初めて大城さんにお会いした日に、いまでは行事の時にしか歌わないという「砂持節」を聴かせて頂けませんでしょうか、とお願いしました。

すると、
「私ひとりで唄うのではなく、3~4名集めてみんなで唄いましょうね。
 みんなで唄った方がよいのです。お帰りはいつですか?」
と私の帰る予定を確認した上で、「では明日、13時に」と平日お昼の突然のお願いにも関わらず、さっそく保存会のメンバーの方に声を掛けて下さり、翌日のお昼には「砂持節」をご披露くださいました。

無論、大城さんはおひとりで唄うこともできます。
しかし、敢えてわざわざみなさんを集めて「砂持節」をご披露するという姿勢に、

“ひとりではなく、伊江島の唄をみんなで大切にして行きたい”

という強い気持ちを感じました。

今回の取材でとくに印象に残ったのは、大城さんのこの
“ひとりではなく、伊江島の唄をみんなで大切にして行きたい”
という強い想いと島人の結束力。

そして、前項の『タヌガサ治療お呪い』を文書化して、島の教育委員会へ自主的にお持ちになった“形にして後世へ残したい”という想いと行動力でした。

ナベさんのお孫さんである大城さんは昭和7年生まれ。
目の前で、
「アガリクマムト サキガクマムト ウラマーリヂタル ダンガスィラ タンタンヤ タンマキ ツィンナ…」
とスラスラと呪文を唱える大城さんの姿を見ていると、ナベさんがいまでも大城さんにおまじないをかけているような、
まだ島のどこかで元気に生きているような錯覚を抱かされたのが不思議でした。
これも「タヌガサ治療お呪い」の仕業なのかもしれません。

いったいどれだけの方が『タヌガサ治療お呪い』をご存知なのでしょうか。

こうした
“島人の小さな努力の積み重ねが島の唄を、伝統を後世へとつなげて行くのだ”
と身をもって感じたのでした。

伊江島人の思い出と、伝統を次世代へ継承したいという強い想いが垣間見れた「砂持節」。

つぎにタッチューが迎える伊江島へ訪れるときには、島風とともに、むかしの伊江島の情景を想い浮かべて頂ければ幸いです。

ゼイサ ゼイサ ゼイサー

取材協力・参考文献

取材協力 (2011年5月)

大城賢雄さん、新城晃さん、山城直也さん、石新一雄さん、宮城義勝さん、八巻勇さん、松川禎さん、マリンハウスIEアイランド

伊江島でお会いしたみなさま、ご協力まことにありがとうございました。
いっぺーにふぇーでーびたん。

<主な参考文献>
『伊江島の村踊』沖縄県伊江村教育委員会
『「しまうた」流れ』仲宗根幸一
『島うた紀行 第三集』仲宗根幸一
『沖縄の歌100選』ラジオ沖縄
『民謡の旅』沖縄フェーズ出版
『やさしい琉歌集』小濱光次郎

2011年5月18日 取材・撮影・執筆:安積美加

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